休日特有の静けさが漂う午後。
奈々は久しぶりに自分の部屋の片付けをしていた。
古い書類や読み終えた本を整理しながら、ふと学習机の一番下の大きな引き出しに手を伸ばす。
そこは、学生時代の思い出や今は使わなくなった小物が雑多に仕舞い込まれている、一種のタイムカプセルのような場所だった。
奥の方に引っかかっていた箱を取り出そうとした時、一枚の硬い紙が指先に触れた。
「……あ」
引き抜いてみると、それは少し色褪せた一枚のポストカードだった。
表面には、鮮やかな朱色に染まる夕焼けの海と、漆黒のシルエットを描く大きな椰子の木。
裏返すと、少し丸みを帯びた、けれど勢いのある懐かしい筆跡で短くメッセージが添えられていた。
『元気にしてるか? こっちは海が綺麗だぞ。日焼けで背中が痛い。土産待ってろよ』
宛名には、まだ少し幼さの残る文字で「奈々様」と書かれている。
差出人の名前を見るまでもなく、誰からのものかはすぐに分かった。
――涼太。
それは、十六歳になりたての、あの眩しすぎる夏に彼から届いたものだった。
ポツリと、胸の奥で小さな灯火が点るような感覚がした。
忘れていたわけではない。
けれど、日常の忙しさに埋もれていた記憶が、一枚の赤いポストカードをきっかけに、色鮮やかなキラメキを取り戻して胸の中でよみがえっていく。
十六歳の夏。
まだ恋というものの正体も分からず、ただ一緒にいるだけで世界が輝いて見えたあの頃。
涼太と奈々は、いつだって隣同士にいた。
「あの頃の私たちって、本当に青かったな……」
奈々は微笑みながら、ポストカードの赤い夕焼けを指先でそっとなぞった。
涼太とは、中学の入学式で席が前後になって以来の腐れ縁だった。
高校に上がった十六歳の夏、二人で夏休みの課題を終わらせようと図書館に集まった日のことを、奈々は今でも鮮明に覚えている。
「奈々、またそんな細かいとこ気に留めてんの? もっと大雑把にバーッとやれば終わるだろ」
「大雑把にやって間違えたら意味ないでしょ! 涼太は適当すぎるのよ」
「適当じゃなくて効率的って言えよ」
二人で星占いの本を読んでいた時、自分たちが「真反対の星座」同士だと知って妙に納得したことがあった。
几帳面で慎重な乙女座の奈々と、自由奔放で直感的な魚座の涼太。
対極に位置するふたつの星座は、まさに二人の関係性を象徴しているようだった。
「ほら見ろ、反対の星座だってさ。どうりで考え方が合わないわけだ」
「くせもの同士だね。だからいっつも小さなことでケンカになるんだよ」
けれど、今思えばそれこそが二人の持ち味だった。
正反対だからこそ、自分が持っていない視点を相手が持っていた。
ぶつかり合いながらも、お互いの足りないピースを補い合うようにして、二人だけの特別な空気感を作り上げていたのだ。
十六歳のあの夏、涼太が家族旅行で南の島へ行く直前、奈々は少しだけ意地を張ってケンカをしたまま見送ってしまった。
本当は「気をつけてね」と言いたかったのに、素直になれなかった。
そんな奈々の元に届いたのが、この赤いポストカードだったのだ。
旅先から送られてきたその一枚で、幼い意地張りも、胸のモヤモヤも、すべて吹き飛んでしまった。
(好きだったのかな、あの頃……)
恋だったのかもしれない。
けれど、ただの恋という言葉で括ってしまうには、あまりにも純粋で、家族のように近くて、そしてかけがえのない存在だった。
奈々は吸い寄せられるようにスマートフォンを取り出した。
連絡先のリストをスクロールし、「涼太」の文字で指を止める。
最後に連絡を取ったのは、半年以上前だ。
「出なかったら、メッセージでいっか」
そう自分に言い訳をしながら、発信ボタンを押した。
耳元で呼び出し音が鳴る。
トントン、と心拍数が少しだけ上がる。
三回目の呼び出し音の後、プツリと音がして、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
『はいはい、もしもし。珍しいじゃん、奈々から電話なんて。なんか事件?』
開口一番のその声に、奈々は思わず吹き出してしまった。
「事件ってなにかな。用がなきゃ電話しちゃいけないの?」
『いや、だってさ。お前からかかってくるときって、だいたい何かに悩んでるか、俺に文句言いたいときだろ?』
茶化すような、軽快で少し意地悪な言い方。
けれど、その声を聞いた瞬間、胸の奥にすーっと温かい安心感が広がっていくのが分かった。
何年も会っていなくても、一瞬で十六歳の頃の距離感に戻ってしまう。
やっぱり、この感覚は涼太にしか出せないものだ。
「ふふ、相変わらずだね。今ね、部屋の掃除してたら、昔もらった赤いポストカードが出てきたの。十六歳の時のやつ」
『あー! あったなそんなの! 南の島から送ったやつだろ? 懐かしいな、おい』
「うん。それで、元気かなと思って」
『元気元気。相変わらず仕事に追われてるけどな。奈々は? 元気そうだな、声聞いて分かった』
二人はそれから、近況や思い出話に花を咲かせた。
相変わらず意見が食い違って「それは違うでしょ」「いや、奈々の考え方がお固いんだよ」なんて軽い言い合いになったけれど、不思議と嫌な気はまったくしなかった。
お互いに成長して、違う道を歩み、違う街で暮らしている。
友達よりも、恋人よりも、今は二人で一緒にいる時間はなくなってしまったけれど。
それでも、心はいつも近くにあるのだと確信できた。
「久しぶりに声聞けて良かった。涼太は涼太らしくやってるみたいで安心したよ」
『おう。お前も無理すんなよ。そのうちまた二人で逢えたら楽しいな』
「うん、本当にね」
男女の友情なんて成立しないと人は言うかもしれない。
でも、私たちはきっと、その例外だ。
男女の垣根を軽々と越えて、お互いの人生を遠くから見守り合える、最高の友情。
そう、涼太は私にとって、紛れもなく「最高の友達」だった。
「ねえ、涼太」
電話を切る直前、奈々はふっと思い立って声をかけた。
『ん? なに?』
「……涼太、いま好きな人とか、付き合ってる人っているの?」
一瞬の沈黙の後、涼太が少し照れくさそうに咳払いをするのが電話越しに聞こえた。
『……まあな。実は最近、付き合い始めた奴がいる』
「本当!? すごいじゃない! どんな人?」
『うるさいな、照れるだろ。……すごく優しくて、俺の適当なところも笑って許してくれるような奴だよ』
電話の向こうで嬉しそうに語る涼太の声を聞いて、奈々の胸の奥がじんわりと温かくなった。
寂しさなんてこれっぽっちもなかった。
あるのは、純粋な祝福の気持ちだけだった。
「良かったね、涼太。……実はね、私もなんだ」
『え、マジで? 奈々にも彼氏できたの?』
「うん。私の頑固なところを、ちゃんと受け止めてくれる人だよ」
『へえ……! それは良かったじゃん。あの気難しい奈々を選んでくれる奇特な奴がいるなんてさ』
「一言余計!」
二人はまた顔を見合わせて笑うように、声を合わせて笑った。
十六歳の頃の恋やキラメキは、大切な思い出として胸の引き出しに仕舞われた。
そして今、私たちはそれぞれの場所で、新しい大切な人と出会い、新しい恋を育んでいる。
「今はそれぞれの恋があるから……それをいつかちゃんと実らせた時は、お互いのこと、思いっきり祝福し合おうね」
『ああ、もちろんだ。盛大にお祝いしてやるよ』
涼太の声は力強く、温かかった。
「でね、涼太。いつか……その時が来たら、お互いのパートナーを連れて、4人で逢えたらステキだね」
『いいねそれ! 楽しそうだ。絶対やろうぜ。相手に奈々の昔のヤバい話、全部バラしてやるから』
「ちょっと、余計なこと言わないでよ!」
未来の約束を交わして、電話を切った。
画面が暗転し、静けさが部屋に戻ってくる。
奈々は手元にある赤いポストカードをもう一度愛おしそうに見つめ、それから丁寧に箱の中へと戻した。
窓を開けると、心地よい風が部屋を吹き抜けていく。
空は、あの夏のポストカードと同じように、どこまでも高く、澄み切っていた。
離れていても、逢えなくても。
私たちはこれからもずっと、最高の友達だ。
いつか訪れる4人での賑やかな再会の日を楽しみにしながら、奈々は微笑み、新しい明日へと一歩を踏み出した。