相川七瀬ファンブログ|トラブルメイカー

相川七瀬さんの軌跡を語るファン日記&ライブレポート集

第六十八話 最高の友達

休日特有の静けさが漂う午後。

奈々は久しぶりに自分の部屋の片付けをしていた。

古い書類や読み終えた本を整理しながら、ふと学習机の一番下の大きな引き出しに手を伸ばす。

そこは、学生時代の思い出や今は使わなくなった小物が雑多に仕舞い込まれている、一種のタイムカプセルのような場所だった。

奥の方に引っかかっていた箱を取り出そうとした時、一枚の硬い紙が指先に触れた。

「……あ」

引き抜いてみると、それは少し色褪せた一枚のポストカードだった。

表面には、鮮やかな朱色に染まる夕焼けの海と、漆黒のシルエットを描く大きな椰子の木。

裏返すと、少し丸みを帯びた、けれど勢いのある懐かしい筆跡で短くメッセージが添えられていた。

『元気にしてるか? こっちは海が綺麗だぞ。日焼けで背中が痛い。土産待ってろよ』

宛名には、まだ少し幼さの残る文字で「奈々様」と書かれている。

差出人の名前を見るまでもなく、誰からのものかはすぐに分かった。

――涼太。

それは、十六歳になりたての、あの眩しすぎる夏に彼から届いたものだった。

ポツリと、胸の奥で小さな灯火が点るような感覚がした。

忘れていたわけではない。

けれど、日常の忙しさに埋もれていた記憶が、一枚の赤いポストカードをきっかけに、色鮮やかなキラメキを取り戻して胸の中でよみがえっていく。

十六歳の夏。

まだ恋というものの正体も分からず、ただ一緒にいるだけで世界が輝いて見えたあの頃。

涼太と奈々は、いつだって隣同士にいた。

「あの頃の私たちって、本当に青かったな……」

奈々は微笑みながら、ポストカードの赤い夕焼けを指先でそっとなぞった。

涼太とは、中学の入学式で席が前後になって以来の腐れ縁だった。

高校に上がった十六歳の夏、二人で夏休みの課題を終わらせようと図書館に集まった日のことを、奈々は今でも鮮明に覚えている。

「奈々、またそんな細かいとこ気に留めてんの? もっと大雑把にバーッとやれば終わるだろ」

「大雑把にやって間違えたら意味ないでしょ! 涼太は適当すぎるのよ」

「適当じゃなくて効率的って言えよ」

二人で星占いの本を読んでいた時、自分たちが「真反対の星座」同士だと知って妙に納得したことがあった。

几帳面で慎重な乙女座の奈々と、自由奔放で直感的な魚座の涼太。

対極に位置するふたつの星座は、まさに二人の関係性を象徴しているようだった。

「ほら見ろ、反対の星座だってさ。どうりで考え方が合わないわけだ」

「くせもの同士だね。だからいっつも小さなことでケンカになるんだよ」

けれど、今思えばそれこそが二人の持ち味だった。

正反対だからこそ、自分が持っていない視点を相手が持っていた。

ぶつかり合いながらも、お互いの足りないピースを補い合うようにして、二人だけの特別な空気感を作り上げていたのだ。

十六歳のあの夏、涼太が家族旅行で南の島へ行く直前、奈々は少しだけ意地を張ってケンカをしたまま見送ってしまった。

本当は「気をつけてね」と言いたかったのに、素直になれなかった。

そんな奈々の元に届いたのが、この赤いポストカードだったのだ。

旅先から送られてきたその一枚で、幼い意地張りも、胸のモヤモヤも、すべて吹き飛んでしまった。

(好きだったのかな、あの頃……)

恋だったのかもしれない。

けれど、ただの恋という言葉で括ってしまうには、あまりにも純粋で、家族のように近くて、そしてかけがえのない存在だった。

奈々は吸い寄せられるようにスマートフォンを取り出した。

連絡先のリストをスクロールし、「涼太」の文字で指を止める。

最後に連絡を取ったのは、半年以上前だ。

「出なかったら、メッセージでいっか」

そう自分に言い訳をしながら、発信ボタンを押した。

耳元で呼び出し音が鳴る。

トントン、と心拍数が少しだけ上がる。

三回目の呼び出し音の後、プツリと音がして、聞き覚えのある声が飛び込んできた。

『はいはい、もしもし。珍しいじゃん、奈々から電話なんて。なんか事件?』

開口一番のその声に、奈々は思わず吹き出してしまった。

「事件ってなにかな。用がなきゃ電話しちゃいけないの?」

『いや、だってさ。お前からかかってくるときって、だいたい何かに悩んでるか、俺に文句言いたいときだろ?』

茶化すような、軽快で少し意地悪な言い方。

けれど、その声を聞いた瞬間、胸の奥にすーっと温かい安心感が広がっていくのが分かった。

何年も会っていなくても、一瞬で十六歳の頃の距離感に戻ってしまう。

やっぱり、この感覚は涼太にしか出せないものだ。

「ふふ、相変わらずだね。今ね、部屋の掃除してたら、昔もらった赤いポストカードが出てきたの。十六歳の時のやつ」

『あー! あったなそんなの! 南の島から送ったやつだろ? 懐かしいな、おい』

「うん。それで、元気かなと思って」

『元気元気。相変わらず仕事に追われてるけどな。奈々は? 元気そうだな、声聞いて分かった』

二人はそれから、近況や思い出話に花を咲かせた。

相変わらず意見が食い違って「それは違うでしょ」「いや、奈々の考え方がお固いんだよ」なんて軽い言い合いになったけれど、不思議と嫌な気はまったくしなかった。

お互いに成長して、違う道を歩み、違う街で暮らしている。

友達よりも、恋人よりも、今は二人で一緒にいる時間はなくなってしまったけれど。

それでも、心はいつも近くにあるのだと確信できた。

「久しぶりに声聞けて良かった。涼太は涼太らしくやってるみたいで安心したよ」

『おう。お前も無理すんなよ。そのうちまた二人で逢えたら楽しいな』

「うん、本当にね」

男女の友情なんて成立しないと人は言うかもしれない。

でも、私たちはきっと、その例外だ。

男女の垣根を軽々と越えて、お互いの人生を遠くから見守り合える、最高の友情。

そう、涼太は私にとって、紛れもなく「最高の友達」だった。

「ねえ、涼太」

電話を切る直前、奈々はふっと思い立って声をかけた。

『ん? なに?』

「……涼太、いま好きな人とか、付き合ってる人っているの?」

一瞬の沈黙の後、涼太が少し照れくさそうに咳払いをするのが電話越しに聞こえた。

『……まあな。実は最近、付き合い始めた奴がいる』

「本当!? すごいじゃない! どんな人?」

『うるさいな、照れるだろ。……すごく優しくて、俺の適当なところも笑って許してくれるような奴だよ』

電話の向こうで嬉しそうに語る涼太の声を聞いて、奈々の胸の奥がじんわりと温かくなった。

寂しさなんてこれっぽっちもなかった。

あるのは、純粋な祝福の気持ちだけだった。

「良かったね、涼太。……実はね、私もなんだ」

『え、マジで? 奈々にも彼氏できたの?』

「うん。私の頑固なところを、ちゃんと受け止めてくれる人だよ」

『へえ……! それは良かったじゃん。あの気難しい奈々を選んでくれる奇特な奴がいるなんてさ』

「一言余計!」

二人はまた顔を見合わせて笑うように、声を合わせて笑った。

十六歳の頃の恋やキラメキは、大切な思い出として胸の引き出しに仕舞われた。

そして今、私たちはそれぞれの場所で、新しい大切な人と出会い、新しい恋を育んでいる。

「今はそれぞれの恋があるから……それをいつかちゃんと実らせた時は、お互いのこと、思いっきり祝福し合おうね」

『ああ、もちろんだ。盛大にお祝いしてやるよ』

涼太の声は力強く、温かかった。

「でね、涼太。いつか……その時が来たら、お互いのパートナーを連れて、4人で逢えたらステキだね」

『いいねそれ! 楽しそうだ。絶対やろうぜ。相手に奈々の昔のヤバい話、全部バラしてやるから』

「ちょっと、余計なこと言わないでよ!」

未来の約束を交わして、電話を切った。

画面が暗転し、静けさが部屋に戻ってくる。

奈々は手元にある赤いポストカードをもう一度愛おしそうに見つめ、それから丁寧に箱の中へと戻した。

窓を開けると、心地よい風が部屋を吹き抜けていく。

空は、あの夏のポストカードと同じように、どこまでも高く、澄み切っていた。

離れていても、逢えなくても。

私たちはこれからもずっと、最高の友達だ。

いつか訪れる4人での賑やかな再会の日を楽しみにしながら、奈々は微笑み、新しい明日へと一歩を踏み出した。

第六十七話 しあわせなじかん

新月の空は、まるで深い漆黒のベルベットを敷きつめたようにどこまでも昏く、そして静かだった。

都市の喧騒から少し離れた湖畔の小さなコテージのテラスで、奈々は夜風に身をゆだねていた。

初夏の風は柔らかく、草木の甘い香りを運んでくる。

どこか遠くで小さな川のせせらぎが聞こえ、闇の中に目を凝らすと、漆黒の空間に小さな光の粒がぽつり、ぽつりと浮かび上がっていた。

「わあ……」

奈々は小さく息をのんだ。

夜を行く虫たちが、蛍色の淡く優しい光を纏って舞っている。

一つひとつの光は儚げでありながら、闇の中では確かな存在感を放ち、まるで星の欠片が地上で遊んでいるかのようだった。

奈々が静かに両手を差し出すと、一匹の光が吸い寄せられるようにその掌の上に降り立った。

手のひらから溢れ出す、幻想的な蛍色の光。

奈々がその温かな光に見とれていると、後ろからそっと柔らかい温もりが包み込んでくれた。

「寒くない?」

耳元で囁く、低く落ち着いた声。奈々の大好きな文也の声だった。

後ろから回された彼の腕が、奈々の体をしっかりと抱きしめる。

文也の体温と、彼がいつもまとっている清涼感のある香水の香りが奈々の全身を満たしていく。

「全然寒くないよ。見て、文也。すごくきれい……」

奈々が掌を見せると、文也は「本当だね」と優しく微笑み、彼女の手を包み込むように重ねた。

その拍子に、驚いた虫はふわりと空へ舞い立ち、他の光の群れへと溶けていった。

文也の左手と、奈々の右手。重なり合った指先で、ひんやりとした小ぶりの宝石が月明かりのない闇の中で密やかに煌めいた。

それは、先月の奈々の誕生日に文也が贈ってくれた指輪だった。

「星屑で出来ているみたい……」

奈々は指輪の石を愛おしそうに撫でた。

その指輪に嵌め込まれているのは、サファイアよりもなお深い、吸い込まれるような藍色とコバルトブルーが混ざり合った青だった。

光の当たり方によって、まるで夜空の星屑を凝縮したかのような輝きを見せる。

「気に入ってくれてる?」

「うん、宝物。……ねえ、文也。この指輪の青ってね、文也の瞳にどこか似てるの」

奈々が振り向いて文也の顔を見上げると、文也は少し照れたように目元を緩めた。

文也の瞳は、一見すると深い黒のように見えるが、強い光を受けたり、こうして間近で見つめ合ったりすると、吸い込まれるような深い青みを帯びて見えるのだ。

冷静で、どこか神秘的で、でも奈々を映すときだけは世界の誰よりも温かく揺れる、大好きな瞳。

「僕の目? 自分ではよく分からないな」

「ううん、そっくりだよ。だからこの指輪をつけてると、文也がずっと側にいて守ってくれてる気がするの」

そう言うと、文也は愛おしさを抑えきれないといった様子で奈々の頬を包み込み、優しく唇を重ねた。

指先から、唇から、触れ合うすべての場所から溢れ出す温もり。

新月の闇は、二人だけの世界を優しく覆い隠してくれていた。

コテージの部屋に戻ると、木造の温かいインテリアがランプの柔らかな光に照らされていた。

大きなベッドに横たわり、二人は一枚の毛布を分け合ってぴったりと身体を寄せる。

「ねえ、文也」

「ん?」

「今日、すごくしあわせ」

奈々がそう言うと、文也は嬉しそうに目を細め、奈々の額に、鼻先に、そして頬に、小刻みに何度もキスを落とした。

「たくさんキスしよう」

文也は囁き、今度は奈々の唇にゆっくりと深くキスをした。

「たくさんハグもしよう」

そう言って、奈々の華奢な身体をその腕の中にぎゅっと閉じ込める。

文也の鼓動が、胸を通して奈々に直接伝わってきた。

トントン、トントンと刻まれる力強いリズム。

それが何よりも心地よい子守唄だった。

普段の文也は、外では落ち着いた大人の男性として振る舞うことが多い。

仕事に誠実で、周りからの信頼も厚く、あまり感情を表に出さないタイプだ。

けれど、二人きりの夜になると、こんな風に溢れるほどの愛を隠さずに与えてくれる。

そのギャップが、奈々の心をいつも甘く痺れさせた。

「奈々」

「なあに?」

「今日もずっと一緒にいられて良かった」

「私も。ずっとこうしていたいな」

文也の手が、奈々の髪を優しく撫でる。

指先が髪をすく感触が心地よくて、奈々の瞼は次第に重くなっていった。

蛍色の光、新月の夜風、深海のような青い指輪、そして大好きな文也の腕の中。

今日という日の一幕一幕が、宝石のように奈々の胸に蓄積されていく。

「おやすみ、奈々」

文也が耳元で、吐息とともに囁いた。

その低く甘い声が鼓膜を揺らした瞬間、奈々の心は温かな幸福感で満たされ、静かな眠りの海へと沈んでいった。

耳元でおやすみ。

ただそれだけの言葉が、どれほど心を安心させるか、文也は知っているのだろうか。

本当に、涙が出るほど「しあわせなじかん」だった。

翌朝、小鳥のさえずりと、薄カーテン越しに差し込む柔らかな朝の光で、奈々は目を覚ました。

まだ夢と現実の境目にいるような心地よさの中で、奈々は自分が誰かの温かい腕の中にしっかりと抱かれていることを思い出していた。

ゆっくりと目を開けると、すぐ目の前に文也の整った寝顔があった。

少し乱れた前髪、長く伸びたまつ毛、少し開いた無防備な唇。

普段のキリッとした表情からは想像もつかないほど幼く見える寝顔に、奈々は胸がキュンと締め付けられるのを感じた。

(可愛いな……)

起こさないように息を潜め、奈々は文也の胸にそっと顔をうずめた。

文也の体温と香りが胸いっぱいに広がり、朝の冷たい空気を忘れさせてくれる。

その時、文也の身体がかすかに動き、抱きしめる腕の力が増した。

「……ん……奈々……?」

掠れた、寝ぼけた低い声。

寝起き独特の少し濁ったその声で名前を呼ばれた瞬間、奈々の心臓が跳ね上がった。

文也はまだ目をしっかりと開けられないまま、手探りで奈々の頭を撫で、自分の引き寄せるように頬をすり寄せてくる。

「……ここに、いるよ……」

奈々が囁くと、文也は「よかった……」と小さく呟き、満足そうに奈々の首筋に顔を埋めた。

ただ、寝ぼけて名前を呼ばれただけ。

たったそれだけのことなのに、奈々の目頭が熱くなった。

(どうしてだろう……涙が出そう)

文也が眠りの浅い意識の中で真っ先に求めたのが自分で自分だったということ。

その事実が、たまらなく愛おしく、誇らしく、そして愛おしかった。

誰よりも近くにいる。

誰よりも文也のことを知っている。

そして、誰よりも文也を愛している。

言葉にすれば単純なことかもしれないけれど、この瞬間、奈々は自分と文也の間にある絆の深さを、肌で、心で、全身で感じていた。

涙が零れ落ちないように奈々は文也の背中に回した手に力を込め、ぎゅっと抱き返した。

今、この場所で流れている時間は、世界で一番贅沢で、誇らしく、そして「しあわせなじかん」だった。

日が完全に昇り、二人で淹れたてのコーヒーをテラスで飲んだ。

昨夜の新月の闇が嘘のように、湖面は太陽の光を受けてキラキラと黄金色に輝いている。

風が木々を揺らし、葉と葉が擦れ合う音が爽やかに響いていた。

テラスのテーブルの上、二人のコーヒーカップが並んでいる。

奈々は自分の指にはめられた青い指輪を見つめ、それから文也の手を見た。

文也の左手の薬指にも、同じデザインのシンプルなシルバーリングが輝いている。

「文也」

「どうしたの?」

文也がコーヒーカップを置き、奈々を見つめた。

その瞳は、朝の光を浴びて深みのある青い輝きをたたえている。

やっぱり、昨日の指輪と同じ色だった。

「私ね、昨日からずっと考えてたの」

「何を?」

「私たちがこうやって出逢って、好きになって、一緒に過ごしてることについて」

奈々は椅子から立ち上がり、文也の前に歩み寄った。

文也は不思議そうな顔をしながらも、優しく奈々の両手を包み込んでくれた。

「世の中にはたくさんの人がいて、いろんな生き方があるじゃない? その中で、文也と私がこうして出逢えたのって、やっぱりすごいことだと思うの」

「そうだね。奇跡みたいな確率だと思うよ」

「だからね……」

奈々は文也の目を真っ直ぐに見つめた。

「これからもずっと、2人でいようよ」

文也の瞳が、驚きでわずかに見開かれた。

「ずっと一緒にいようよ。楽しいことも、悲しいことも、二人で分け合って……たくさんの思い出を紡いでいこう? 赤い糸とか運命とか、最初から決まってるものじゃなくて、私たちが二人で手繰り寄せて、結んで、強くしていくような……そんな運命の糸を、これから一緒に紡いでいこうよ」

奈々の言葉は、少し照れくさかったけれど、胸の奥からの偽りのない本音だった。

文也はしばらくの間、黙って奈々の言葉を噛み締めるように見つめていた。

やがて、その瞳にじんわりと熱い光が宿り、顔全体に世界で一番優しい笑顔が広がった。

「奈々」

文也は奈々の手を引き、そのまま抱き寄せた。

奈々は文也の胸の中にすっぽりと収まる。

「僕から言わなきゃいけないセリフだったのに、先に行かれちゃったな」

文也の声は少し震えていた。

「僕も同じ気持ちだよ。いや、僕の方がずっと前からそう思ってた。君と出逢えて、君を愛することができて、僕の人生は本当に変わったんだ。これからの未来、どんなことがあっても、僕が君の手を離すことは絶対にない」

文也は奈々の顔を上げさせると、青い瞳でまっすぐに奈々を見つめた。

「2人でいよう。ずっと一緒にいよう。僕たちの運命の糸を、二人でどこまでも長く、強く紡いでいこう」

そう言って重ねられた唇は、昨日の新月の夜よりもずっと温かく、未来への確かな約束に満ちていた。

帰り道の車内、奈々は助手席で文也の運転する横顔を眺めていた。

文也の左手に輝く指輪と、自分の左手に輝く青い指輪。

ハンドルを握る彼の美しい手が、時折奈々の膝の上に置かれた手を優しく包み込んでくれる。

新月の夜に見返した、あの蛍色の虫たちの光を思い出す。

小さな光が集まって、暗闇を温かく照らしていたように、これから重ねていく二人だけの思い出や、他愛のない「しあわせなじかん」が、二人の未来を照らしていくのだと思う。

「星屑の指輪」に込められた深い青は、文也の瞳の色。

そして、奈々の心を永遠に満たし続ける愛の色。

「ねえ、文也」

「なあに?」

「今夜も、たくさんハグしてくれる?」

文也は前を向いたまま、くすっと楽しそうに笑った。

「もちろん。毎日、いくらでも」

窓の外には、どこまでも続く青空が広がっていた。

二人がこれから紡いでいく運命の糸は、どこまでも高く、どこまでも遠く、祝福された光の中へと伸びていた。

言葉にならないほどの愛しさを抱きしめながら、奈々は深く息を吸い込んだ。

文也の隣で過ごす全ての瞬間が、かけがえのない、最高に「しあわせなじかん」だった。

第六十六話 STILL RAIN

秋の深まりとともに、空はいつも重たい灰色に沈んでいた。

冷たい雨が静かに降り続く午後。

奈々は駅へ向かう通学路の歩道橋の上で、ふと足を止めた。

視線の先、色とりどりの傘の群れが、濡れたアスファルトの上を滑るように動いている。

黄色、赤、青。

下校途中の小学生たちが、水たまりを跳ねながら笑い声を上げていた。

無邪気で、何の迷いもない鮮やかな世界。

その鮮やかさから弾き出されたかのように、奈々は傘の柄を握り直す。

ふっと鼻腔をくすぐったのは、雨の匂いに混ざり合う金木犀の甘い香りだった。

どこかの庭先から漂ってくるその香りは、秋の深まりと、胸を締め付けるような切なさを否応なしに連れてくる。

歩道橋の向こうから、一人の男性が歩いてきた。

長身を包む、濡れて色を変えた淡い色のシャツ。

濡れた髪を軽くかき上げる仕草。

大智だった。

「奈々」

彼の低い声が雨音を溶かして届く。

奈々は胸の奥がキュッと縮むのを感じながら、小さく頷いた。

大智の着ている淡いシャツの向こう側——彼の日常、彼が背負っている過去、奈々には決して見せない彼の「大人としての顔」。

奈々の知らない世界が、そこには確実に存在している。

彼の家庭、仕事、そして奈々という存在の位置づけ。

彼が時折見せる遠い目を見るたび、奈々は自分が彼の人生のほんのわずかな隙間に滑り込んでいるだけに過ぎないのではないかという恐怖に襲われた。

(どういうつもりで、このまま2人、逢い続けるの……?)

喉まで出かかった問いかけを、奈々は呑み込んだ。

それを言葉にしてしまえば、今にも崩れそうなこの細い糸が、ぷつりと切れてしまう気がしたからだ。

「寒かったろ。入って」

大智は自分の大きな傘を差しだし、奈々の肩を抱き寄せた。

彼の体温と、かすかな煙草と金木犀の混ざった匂いに包まれる。

でも、好きになればなるほど、奈々の心は苦しくなるばかりだった。

大智のマンションの部屋は、いつも静まり返っていた。

生活感の薄い、無機質なリビング。

そこは奈々にとって、世界で一番愛おしく、そして一番孤独を感じる場所だった。

「はい、温かい紅茶」

マグカップを渡してくれる大智の瞳は、どこまでも優しい。

道端で捨てられた子猫をそっと抱き上げるような、慈愛に満ちた、でもどこか距離のある瞳。

「ありがと……」

「奈々、またそんな顔して。大丈夫か?」

大智は奈々の頭をぽんぽんと撫でた。

その手つきは優しくて、温かくて——そして、まるで子供をあやしているかのようだった。

「……子供扱いしないで」

奈々は小さく呟き、マグカップをテーブルに置いた。

「子供扱いなんてしてないよ」

「してるよ。大智はいつもそう。私に何も教えてくれない。私の前ではずっと『優しい大人』のままで……本当の気持ちなんて、ひとつも言ってくれないじゃない」

奈々の声が震えた。

大智の優しさは、時に残酷な壁になる。

彼が踏み込ませてくれない境界線の外側で、奈々はいつも一人取り残されている気がしていた。

私独りだけが淋しがりで。

私独りだけが、この恋に必死になっているみたいで。

「奈々……」

「隠さないでよ! 感情的に熱く、痛く焦げたような……大智の本当の内側の声を聞かせてよ! 私たちのこの関係が、ただの気まぐれや嘘じゃないって……ちゃんと私に刻み込んでよ!」

叫ぶように吐き出した言葉は、静かな部屋に空しく響いた。

奈々の目から涙が溢れ落ちる。

大智は驚いたように目を見開いたが、やがて痛みに耐えるような表情を浮かべた。

彼はゆっくりと手を伸ばし、奈々を強く抱きしめた。

その腕の力強さは、苦しいほどだった。

彼の息遣いが荒くなり、奈々の肩に回された手がかすかに震えているのが分かった。

(あぁ……そうなんだ)

奈々は胸の奥で悟った。

苦しんでいるのは、私だけじゃない。

大智のこの強すぎる抱擁は、彼自身がどうしようもない現実と戦い、何もできない自分自身に悲鳴を上げている証拠なのだ。

「すまない……奈々、すまない……」

大智の低い声が、奈々の耳元で濡れていた。

すべてを捨てて、君を愛したい。

過去に彼がそう囁いた夜があった。

けれど、その約束はいつだって冷たい雨に消され、現実に打たれて流されていく。

彼には守るべきものがあり、背負うべき責任があった。

奈々のためにすべてを投げ出すことなど、できるはずがなかった。

「……大智」

「俺は、君を苦しませてばかりだ」

不安という底なしの海に、二人で飛び込んでしまったのだと奈々は思った。

どこに行き着くかも分からない、祝福されることもない恋。

凍えるような心で抱き合いながら、お互いの体温だけを唯一の光として灯している。

愚かだと笑われても、このぬくもりだけは本物だと、そう信じるしかなかった。

部屋を出る時間は、いつも唐突にやってくる。

「送っていくよ」という大智の言葉を断り、奈々は一人で玄関に向かった。

これ以上一緒にいたら、本当に帰れなくなってしまうから。

「じゃあね、大智」

「気をつけてな。傘、忘れるなよ」

バタン、とドアが閉まる。

金属音とともに途切れた二人の世界。

左手でドアノブを放した瞬間、胸を突くような鋭い痛みが奈々を襲った。

(痛い……息ができない)

ドアに背中を預け、胸をぎゅっと押し祀る。

別れてから、まだ5分も経っていない。

彼の部屋の前の廊下、冷たい風が吹き抜ける空間で、奈々は崩れ落ちそうになる膝を必死で耐えていた。

もう、逢いたい。

今すぐにあのドアを開けて、彼の胸に飛び込みたい。

「好き」と言ってほしい。

「行くな」と言ってほしい。

でも、奈々は歩き出した。

マンションを出ると、相変わらず冷たい雨が降り続いていた。

濡れたアスファルトに反射する街灯の光が、滲んで揺れる。

すれ違う人々はみな足早に家路につき、金木犀の香りは雨の冷たさに洗われて薄れかけていた。

奈々は傘を強く握りしめ、濡れた街を歩く。

好きになるほど、苦しくなっていく。

この恋に未来がないことなんて、本当は最初から分かっていた。

どういうつもりで、このまま二人で逢い続けるのだろう。

この問いに、誰も正しい答えなんて与えてはくれない。

だけど——。

雨の音に混ざって、さっきまでの大智の抱擁の温もりと、彼の切ない吐息が鮮やかに蘇る。

子猫を抱くような瞳の奥にあった、一瞬の激しい情熱と痛み。

あれは嘘じゃない。

私たちが不安の海で抱き合ったあの時間は、間違いなく本物だった。

「嘘じゃないって……教えてよ」

奈々は濡れた頬を拭うことなく、雨空を見上げた。

降り止まない雨の中、奈々は今日も彼を想う。

どれだけ傷ついても、どれだけ痛く焦げ付くような夜を重ねても、このぬくもりという名の光を信じて、奈々は明日も大智に逢いに行くのだ。

冷たい雨は、二人の切ない秘密を隠すように、静かに、どこまでも降り続いていた。

第六十五話 恋人じゃなくなる日

助手席のシートに深く背を預けると、フロントガラス越しに広がる夜空の星々が、まぶたの裏にまで降り注いでくるようだった。

夜のドライブデート。

いつもなら少し胸が跳ねるはずの時間が、今夜は息が詰まるほど重い。

奈々は膝の上で固く握りしめた自分の指先をじっと見つめていた。

「……奈々」

隣でハンドルを握る誠が、消え入るような声で自分の名を呼ぶ。

本当は、分かっていた。

今夜、誠が突然「少しドライブに行かないか」と奈々を連れ出した理由を。

「あのさ……本当にごめん。俺、他に気になる人ができたんだ。ちゃんと向き合わなきゃいけないと思って、今日は……」

誠の口から紡がれる言葉。

彼が何度も、何度も「ごめん」と繰り返すたび、奈々の胸の奥に冷たい針が刺さる。

(そんなに何度も、あやまるくらいなら……最初から優しくなんてしないでよ)

奈々は溢れそうになる感情を喉の奥で押し殺し、静かに窓の外へ視線を投げた。

「あやまらないでよ、誠」

声が震えないように、できるだけ淡々と言った。

けれど、そのひと言を吐き出すだけで、胸がはちきれそうだった。

車のエンジン音が低く響く車内で、奈々の頭の中には、過ぎ去った思い出が走馬灯のように駆け巡っていた。

忘れられないのは、二年前のあの夏の日。

澄み渡る青い海と、色鮮やかに咲き誇るブーゲンビレアの花に囲まれた、小さな島への旅行だった。

あの頃の奈々は、誠のことが泣きたいくらいに好きだった。

仕事で忙しい彼を気遣い、連絡が来ない夜も、一人で部屋で待っていた。

寂しさを抱え込み、「物分りのいい彼女」を演じることが、誠をつなぎ止める唯一の方法だと信じていたから。

でも、本当は気づいていたのだ。

二人で並んで歩いているときも、部屋で静かに寄り添っているときでさえ、奈々はいつも淋しかった。

誠がふとした瞬間に見せる、どこか遠くを見つめる眼差し。

その瞳の向こうに、自分ではない誰か——あるいは決して届かない何か——を見ていることに。

「逢えない時間が増えるほど、心の距離が開いていくのが分かってたんだ……」

一人で過ごす時間に慣れていくにつれ、奈々は上手く自分の時間を潰せるようになっていった。

けれど、そうやって一人で平気を装うたび、置き去りにされた心は少しずつ、何かに傷ついて擦り減っていた。

互いのすれ違いや溝を埋めるために、強く抱き合うことすらなくなっていた二人。

隣に座っているのに、世界で一番近くにいるはずなのに、今の二人は世界で一番遠い場所にいる気がした。

あの眩しかった夏の島へ、熱を帯びていたあの日に、二人はもう二度と戻れない。

「奈々、何か言ってくれよ……」

誠の声には落胆と焦燥が混ざっていた。

だが、奈々は言葉を返さなかった。

交わすべき言葉さえ、もうどこを探しても見つからなかった。

言葉を発してしまえば、崩れてしまいそうな自分がいた。

車がゆっくりと減速し、赤信号で停止する。

いつも通りの聞き慣れたウィンカーの音。ここは、奈々のマンションへ続く「いつもの交差点」だ。

あと数十秒で、信号は青に変わる。

青に変われば、角を曲がって、私の家に着いてしまう。

(家に帰るまで、絶対に泣かない)

それが、奈々に残された最後の強がりだった。

惨めに涙を流して彼を責めたり、「行かないで」と縋ったりするのは嫌だった。

好きだった人に対する、そして彼を好きだった自分に対する、小さくて切ない抵抗だった。

信号が赤から青へと変わる。

誠の手がシフトレバーを動かし、車がゆっくりと滑り出した。

マンションのエントランス前に、白い車が静かに停車する。

ハザードランプの点滅が、暗闇の中で規則正しくオレンジ色の光を放っている。

「……ここまで送ってくれて、ありがとう」

奈々はシートベルトを外した。

カチリと鳴った金属の音が、二人の関係の終わりを告げるベルのように響く。

ドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開ける。

夜の冷たい空気が車内に流れ込み、奈々の頬を撫でた。

この車を降りたら。

一歩、外のコンクリートに足を踏み出したら。

(私達、もう恋人じゃなくなるんだね)

「じゃあね、誠。元気でね」

振り返ることなく、奈々は車を降りてドアを閉めた。

背後でエンジン音が遠ざかっていくのを感じながら、奈々は夜空を見上げた。

まぶたの裏に降っていた星たちは、いつの間にか滲んで、ひとすじの温かい温もりとなって頬を伝い落ちていった。

第六十四話 Dearest:my friend

潮風が、ホームの黄色い線の内側まで届いていた。

かすかに塩気を帯びた空気が鼻腔をくすぐり、奈々は薄く息を吐き出す。

手元のスマートフォンには、先ほど「あと三分で着くよ!」と送られてきたメッセージの画面が開かれたままだ。

画面の端に映る小さな時計の数字を指でなぞりながら、奈々は小さく微笑んだ。

「変わらないな……」

思わず口からこぼれた言葉は、線路を走るモーターの音に消えていった。

いつのまにか、私たちは大人と呼ばれる年齢になっていた。

学生の頃は、二十代半ばにもなれば、誰もが背筋を伸ばして、自分の人生の行き先を迷いなく歩いているものだと思っていた。

だが、実際にその領域に踏み込んでみると、そんな完璧な大人なんてどこにもいないということに気づかされる。

職場のデスクで重ねられる書類の山、要領よくこなすことばかりを求められる毎日、人間関係の摩擦を避けるために張り付けるようになった愛想笑い。

流されるように穏やかに過ぎ去っていく時間の中で、奈々はふと、自分がどこに立っているのか分からなくなることがある。

まるで、自分がどこへ行きたいのかを見失った幼子のような、心もとない感覚。

「奈々!」

人混みの中から、聞き覚えのある明るい声が響いた。

振り返ると、手持ちのトートバッグを軽く揺らしながら、走ってくる彼女の姿があった。

高校時代からの大親友、葵だ。

「ごめんごめん、待たせちゃった?」

息を切らしながら葵は笑う。

目元に浮かぶ小じわも、少し伸びた髪の毛も、最後に会った一年前と大きくは変わらない。

けれど、奈々はその笑顔の裏側にあるものを、見逃さなかった。

葵の眉間には、ほんの僅かな翳りが落ちている。

笑顔を作るときに生じる、かすかな強張り。

(……また、一人で抱え込んでいるな)

葵は昔からそうだった。

真面目で、誰よりも理想が高くて、自分の弱みを人に見せるのを酷く嫌う。

最近、任される仕事の責任が重くなったこと、そしてプライベートでも大きな選択を迫られていることは、噂や SNS の短文から察していた。

「ううん、全然待ってないよ。じゃあ、行こっか」

奈々は多くを問わなかった。

「大丈夫?」とか「何かあった?」なんて言葉を今投げかけても、葵は「大丈夫だよ」といつものように強がってしまうに決まっている。

音を立てて滑り込んできたローカル線に、二人は乗り込んだ。

車内は空いていて、ボックス席に斜め向かいに腰を下ろした。

ガタゴトと揺れる電車。

窓の外には、都会のコンクリートの街並みが少しずつ薄れ、緑豊かな山あいや、低い家々が並ぶ景色へと変わっていく。

葵は肘を窓枠につき、流れる景色をぼんやりと眺めていた。

時折、奈々の視線に気づいたように振り向き、小さな溜息をついてから、申し訳なさそうに微笑む。

その笑顔が、揺れる電車の影と重なって、どこか儚げに見えた。

「ねえ、葵」

奈々は声をかけた。

「今日は一日中、思いきりはしゃぐって決めてるからね」

「え? はしゃぐって、何をするの?」

葵が目を丸くする。

「うーん、とりあえず、電車に揺られてそのまま海へ行くの。計画なんてそれだけ!」

奈々の唐突な言葉に、葵は一瞬呆れたような顔をしたが、やがてくすりと笑った。

「相変わらず大雑把だなぁ、奈々は」

「いいの。今日はそういう日なの」

流れる車窓の向こうに、眩しい青が見え始めた。

ギラギラと太陽を反射する太平洋の水平線だ。海沿いの小さな駅で電車を降りると、そこには潮の香りと、夏を告げるセミの声が満ちていた。

駅から坂道を下ると、目の前には一面の砂浜と海が広がっていた。

二人は靴と靴下を脱ぎ捨て、裸足を熱い砂に埋めながら波打ち際へと駆け寄った。

「うわ、冷たい!」

寄せては返す波が、奈々の足首をさらっていく。

澄んだ海水は太陽の光を反射して、まるでグラスの中で弾けるソーダ水のように、シュワシュワと白い泡を立てて光っていた。

「冷たくて気持ちいい……」

葵も少し裾をくり上げて、足元を浸した。

波とたわむれる足元を見つめながら、葵がぽつりと呟いた。

「……私ね、最近、自分がどうしたいのか分からなくなっちゃってさ」

潮騒の音に紛れそうな、小さな声だった。

「仕事でもさ、もっと出来る自分にならなきゃって思って頑張るんだけど、やればやるほど理想から遠ざかる気がして。周りはどんどん先に行って、大人になっていくのに、私だけ足踏みしてるみたいで……」

葵は自分の裸足の指先を見つめていた。

波が引くたび、足下の砂がさらわれ、身体が少しずつ海へと引きずり込まれるような感覚に陥る。

「理想の自分か…」

奈々は葵の横顔を見つめた。

誰もがきっと、自分だけの理想の自分を探して生きている。

もっと強く、もっと賢く、もっと完璧な自分。

無限の夢を抱いていた子どもの頃の素直なまま、大人になろうともがいている。

葵の真面目さは、決して悪いことじゃない。

でも、その理想の高さが、今の葵を苦しめているのだ。

「葵」

奈々は葵の手を、そっと握った。

言葉なんて、本当は多くはいらない。

高校の放課後、夕陽が差し込む教室で黙って隣に座っていたときから、二人はお互いの気配だけで感情を分かち合えてきたのだから。

「そんな風に、がんばらないで」

奈々は静かに、でも力強く言った。

「完璧じゃなくていいよ。迷子になったっていいじゃない。葵は十分頑張ってるよ。言葉にしなくても、私は分かってるから。だからさ、私の前でまで、理想の自分を演じようとしなくていいんだよ」

葵の手が、ぴくっと跳ねた。

葵はゆっくりと奈々のほうを振り返った。

その瞳には、今にもこぼれ落ちそうな涙が溜まっていた。

「奈々……」

「遠くにいてもさ、なかなか逢えない時間があっても、忘れないでいてね。葵は一人じゃないよ。孤独なんて、絶対にないんだから」

波が二人の足を優しく包み込み、光の粒子を振り撒いて弾けた。

葵の目から、ぽろりと一筋の涙が溢れ落ち、砂浜へと吸い込まれていった。

でも、その顔にはもう、あの悲しげな強がりは無かった。

心から解きほぐされたような、柔らかく暖かい微笑みが浮かんでいた。

「……うん。ありがとう、奈々」

二人はそれから、子どもみたいに海で遊んだ。

波を掛け合ったり、きれいな貝殻を探したり、ソーダ水の泡みたいな波を追いかけたり。

大人という肩書も、日々の悩みも、すべて寄せる波が遠くへ連れ去ってくれたようだった。

太陽が水平線の彼方へと傾き、空が綺麗なグラデーションを描き始める頃、二人は駅へと向かう坂道を登っていた。

行きよりもずっと軽やかになった二人の足取り。

手には、濡れたタオルと、海で見つけた小さな貝殻が入った袋。

「楽しかったな」と葵が笑う。

「でしょ? たまにはこういう日がないとね」奈々も胸を張った。

すっかり陽が落ち、紺碧の夜空が広がり始めた頃、二人は再びローカル線のホームに立っていた。

ふと空を見上げると、大きな満月がぽっかりと浮かんでいた。

音を立ててやってきた電車に乗り込む。

窓の外を眺めると、どこまでも続く夜空の中で、あの月がずっと二人と同じ速度で動いていた。

建物の影に隠れても、線路が大きくカーブしても、窓の向こうにはいつもあの優しい光がある。

「月がついてくるね」

葵が窓ガラスに額を寄せるようにして、空を見上げた。

「本当だ。私達の後を、ずっと追いかけてくる」

まるで、旅路を行く二人をそっと見守るように。

どんなに離れても、どんなに夜が暗くても、光を絶やさずに寄り添ってくれる存在のように。

奈々は心の中で、窓の外の月と、隣にいる親友に向かって、そっと言葉を紡いだ。

――逢えない時間も、忘れないで。

孤独などは決してないから。

言葉はなくても分かり合える。

だから、そんな風にがんばらないで。

月はずっと見守っている。

そして私も、ずっとここにいる。

電車は夜の闇を切り裂きながら、静かに、でも確かな足取りで未来へと走っていた。

第六十三話 dandelion

春の光が柔らかく差し込む放課後の校舎裏で、綿毛になりかけたタンポポをひとつ、私はそっと指先で摘み取った。

風が吹き抜けるたび、白い羽根がひとつ、またひとつと解かれ、春の青空へと舞い上がっていく。

その光景をぼんやりと眺めながら、胸の奥にずっと沈めていた言葉をそっと思い浮かべた。

――「さよなら」

ずっと言えないままだった言葉。

喉の奥でつかえて、言葉にするたびに心が引きちぎられそうだったフレーズ。

けれど今なら、この青い風に乗せて、空へと還せるような気がしていた。

奈々と海斗が出会ったのは、高校一年生の春だった。

当時の海斗は、いつもどこか遠くを見つめているような男の子だった。

放課後になると、古い木造の美術準備室にこもり、黒板やコンクリートの壁に真っ白なチョークで絵を描いていた。

彼が描くのは、決まって「空へ続く巨大な塔」や「羽を生やした鳥たちの街」だった。

白く繊細な線が重なり合い、放課後の夕日を受けて輝く。

その景色があまりに美しくて、私は図書室の窓からいつも息をのんで眺めていた。

「なに見てんの、奈々?」

ある日、準備室の裏手で鉢合わせした海斗が、チョークで白くなった指先で頭を掻きながら笑った。

「海斗の絵。……すごく遠くまで続いていきそうだなって思って」

私が正直に答えると、彼は少し照れたように鼻の頭を擦った。

「これさ、ただの落書きだけどさ。いつか俺、本当にこんな景色が見える場所に行きたいんだ。誰も見たことがない建築をつくりたい。空高く続いていくような、みんなが幸せになれる場所を」

そう語る海斗の瞳は、まるでどこまでも澄み渡る青空そのものだった。

私はその横顔に、言葉にできないほど惹かれていった。

ふたりで過ごす時間は、私にとって世界のすべてだった。

放課後、タンポポが群生する土手に座り、将来の夢を語り合う時間。

海斗が描く未来のスケッチを隣で見つめる時間。

傷ついたこと、うまくいかないこと、青い青春の痛みを分け合いながら、私たちは少しずつ大人になっていった。

「奈々、時間はさ、きっと俺たちの歩いた軌跡を彩ってくれるよ」

海斗はよくそんな恥ずかしいことを、大真面目な顔で言っていた。

彼といるだけで、どんな不安も「愛しさ」へと変わっていくような、不思議な安心感があった。

けれど、永遠に続くと思っていた「あの場所」は、ある日突然、終わりを迎えた。

高校三年の秋。

海斗の海外留学が決まった。

建築の名門と言われる海外の大学へ進学するため、卒業を待たずに渡米するという。

彼にとって最大の夢が叶った瞬間だった。

心から祝福しなければいけないと分かっていた。

それなのに、私の胸に広がったのは、真っ黒な寂しさと恐れだった。

「奈々、一緒に来てほしいとは言えない。でも……俺はずっと奈々のことを思ってる」

出発の前夜、あのタンポポの土手で海斗は私にそう言った。

海斗の瞳には迷いと、私を引き止めたいような情熱が宿っていた。

もし私が「行かないで」と泣きついたら、もし「私もついていく」と言えたなら、私たちの未来は変わっていたのかもしれない。

けれど、私には分かっていた。

私が海斗の翼を重くしてはいけないのだと。

私自身も、この街で自分の夢――子供たちに寄り添う保育士になるという道を見つけ始めていた。

「頑張ってね、海斗。応援してる」

私が言えたのは、そんなありきたりな言葉だけだった。

本当は、泣き叫びたかった。

「さよなら」の一言さえ、言ったら本当にすべてが終わってしまうのが怖くて、口から出すことができなかった。

海斗はどこか切なさの混じった笑顔を浮かべ、私の頭をぽんぽんと撫でた。

「また逢おう、奈々。いつか、生まれたての季節を感じられるような場所で」

それが、私の知る「海斗」との最後の会話だった。

その後、海斗が去ったあとの街は、まるで色を失ったようだった。

時間が経つにつれ、彼からの連絡は減っていった。

お互いに新しい環境で忙殺され、心の距離は少しずつ、けれど確実に開いていった。

彼が夢に向かって羽ばたいていく一方で、私は過去に取り残されているような気がしていた。

海斗と過ごした日々、喧嘩した記憶、言えなかった想い。

胸の奥に残る「青い傷跡」は、かさぶたになっても時折ひりひりと痛んだ。

もう、あの楽しかった放課後の準備室には誰も戻れない。

誰もがそれぞれの未来へ進んでいく中で、私だけが「さよなら」を言えないまま、止まった時間の中で佇んでいた。

それから、五年という年月が流れた。

私は地元の幼稚園で働き始め、毎日泥だらけになりながら子供たちと追いかけっこをしていた。

仕事は忙しく、時に落ち込むこともあったけれど、ふとした瞬間に海斗の言葉を思い出していた。

『時間は軌跡を彩ってゆくね』

あんなに苦しかった別れも、海斗と連絡を取らなくなって久しい今では、温かい思い出として胸の中で輝いている。

時間を重ねることで、あの日々の甘酸っぱさや青い傷跡すらも、私という人間を形成する愛おしい軌跡へと変わっていったのだ。

時間は、ただ過ぎ去るだけじゃない。

どんな悲しみも乗り越えていけるような、静かな勇気を背中に与えてくれる。

ある春の日、地元の図書館を訪れた私は、一枚の建築展のポスターに目を奪われた。

『若手建築家・新条海斗作品展 ―― dandelion――』

心臓が跳ね跳ねた。

吸い寄せられるように、私はその個展が開催されている市内のギャラリーへと足を運んだ。

白を基調とした洗練された空間には、海斗が手がけた数々の建築模型やスケッチが飾られていた。

どれもが光を豊かに取り込み、空へとひらけていくような、伸びやかで優しいデザインだった。

その中央に、一枚の大きなパース画が飾られていた。

それは、一面のタンポポ畑の真ん中に建つ、ガラス張りの小さなコミュニティセンターの絵だった。

風が吹き抜けるような構造、子供たちが楽しそうに走る庭。

そして何より、画角の隅にチョーク風のタッチで描かれた、空高く続いていくようなライン――。

高校時代、海斗が準備室の黒板に描いていたあの落書きの面影が、そこにははっきりと残っていた。

解説のプレートには、海斗のコメントが添えられていた。

『たんぽぽの綿毛は、風に乗ってどこまでも飛んでいく。かつて大切な人と過ごした場所、そこでもらった言葉やぬくもりが、今の僕の創作の原点です。過去に戻ることはできないけれど、あの日々があったからこそ、僕は新しい風に乗って歩き出すことができました』

言葉が、涙となって目から溢れ落ちた。

海斗もまた、あの日々を胸に前へ進んでいたのだ。

別れは終わりではなかった。

あの時ふたりで分かち合った時間も、抱えていた青い傷跡も、すべては未来へ飛翔するための羽になっていたのだ。

本当に大切だった。

心から、彼に出会えたことに「ありがとう」と言いたかった。

ギャラリーを出ると、春の青い風が吹き抜けた。

私は胸いっぱいに生まれたての風を吸い込んだ。

不思議と、心はかつてないほど軽やかだった。

ふと、街角の歩道橋の上に一人の男性が立っているのが見えた。

スーツのジャケットを腕にかけ、風に髪をなびかせながら、どこか懐かしそうに空を見上げている後ろ姿。

(海斗――)

声には出さなかった。

彼がゆっくりと振り向き、私と視線が交差した。

五年ぶりの海斗は、すっかり大人の男性の顔つきになっていた。

けれど、その瞳の奥にある澄み切った青空のような輝きは、あの頃のままだった。

海斗は少し驚いたように目を見開き、それから――高校時代と同じ、少し照れたような温かい笑顔を浮かべた。

お互いに、歩み寄ることはしなかった。

歩道橋の上と下、すこし離れた距離のまま、私たちは見つめ合い、静かに深く頷き合った。

「いつか笑顔でまた逢えたらいいよね」

あの日の約束は、今日、この瞬間に叶ったのだ。

言葉を交わさなくても、お互いの笑顔だけで十分だった。

(さよなら、海斗。そして、心からのありがとう)

ずっと胸に閉じ込めていた言葉が、すーっと空へと昇っていくのが分かった。

もう、あの愛おしい過去に戻る必要はない。私には私の、海斗には海斗の、新しい明日があるのだから。

私は海斗に一度だけ手を振ると、くるりと背を向けて歩き出した。

足元を見ると、舗装されたアスファルトの隙間から、黄色いタンポポが力強く咲いていた。

その隣で、小さな綿毛がひとつ、生まれたての風に吹かれてふわりと舞い上がる。

どこまでも、どこまでも、新しい未来に向かって飛んでいく綿毛を見送りながら、私は深く息を吐いた。

視界に映る街並みが、ほんの少しだけ昨日と違って見えた。

光はより眩しく、風はどこまでも青く、私を包み込んでいく。

頬に残る風の冷たさを感じながら、私は晴れやかな笑顔で、新しい一歩を踏み出した。

News&Playback 2026.7-12

2026.7

FLASH対談

https://smart-flash.jp/entertainment/entertainment-news/417025/

Redについて

https://news.yahoo.co.jp/articles/58d05b8678b7a5933d0b633a457176a4b0c081fc

七瀬の日

https://barks.jp/news/1077199

https://avexnet.jp/news/1034946

https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/wwschannel/entertainment/wwschannel-654762

https://note.com/soda6040/n/n52a90c3f5d93

https://news.livedoor.com/article/detail/31775770/

https://lmusic.tokyo/news/feature/100-9

https://note.com/aikawananase_fan/n/nf55c8759d5e0

https://ameblo.jp/alhambra-chiyuki/entry-12972106836.html

クルーズ船飛鳥II ゲスト変更出演

https://plan.asukacruise.co.jp/cruise/97202/

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/2788933

https://heisei7.blog.fc2.com/blog-entry-5789.html

https://dream012504.hatenadiary.jp/entry/2026/07/18/105910

日本テレビ『FUN!FUN!FANTASTICS 祭』

https://www.the-miyanichi.co.jp/oricon/902624.html

うたコン

https://www.nhk.jp/g/ts/1J9MXY5QX2/blog/bl/pDxvA0zY31/bp/plOVA9Lj54/

https://news.yahoo.co.jp/articles/6c898300d5f9d7b6f07757c9a1be44f59d64f066

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2026/07/22/articles/20260722s00041000404000c.html

宝くじ文化公演 オーケストラで歌う青春ときめきラブソング

https://www.imizubunka.or.jp/info/event/event_415/

KINCHO プレゼンツ 夏なんです | BS朝日

https://www.bs-asahi.co.jp/natsunandesu/

https://bangumi.org/tv_events/seasons?season_id=938066

M’s Groove Friday

https://cocolo.jp/service/homepage/index/5070/66570#google_vignette

みえ旅レセプション2026

https://news.yahoo.co.jp/articles/2fb4bcba0b80bc1207afdf9e4cd899700132ea82

https://news.jp/i/1453235060663976218?c=768367547562557440

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000009.000144988.html

https://news.tv-asahi.co.jp/news_geinou/articles/900195746.html

https://www.sanspo.com/article/20260724-3VOCGUOBONMBFIF2DMI5QSLXF4/

https://news.yahoo.co.jp/articles/866489a979ebff4f957c578c601cef460216329b

https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/chuspo/entertainment/chuspo-1285885

https://news.livedoor.com/article/detail/31902806/

伊勢神宮お木曳行事

https://loco-labo.com/12536/

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000105.000079832.html