秋の深まりとともに、空はいつも重たい灰色に沈んでいた。
冷たい雨が静かに降り続く午後。
奈々は駅へ向かう通学路の歩道橋の上で、ふと足を止めた。
視線の先、色とりどりの傘の群れが、濡れたアスファルトの上を滑るように動いている。
黄色、赤、青。
下校途中の小学生たちが、水たまりを跳ねながら笑い声を上げていた。
無邪気で、何の迷いもない鮮やかな世界。
その鮮やかさから弾き出されたかのように、奈々は傘の柄を握り直す。
ふっと鼻腔をくすぐったのは、雨の匂いに混ざり合う金木犀の甘い香りだった。
どこかの庭先から漂ってくるその香りは、秋の深まりと、胸を締め付けるような切なさを否応なしに連れてくる。
歩道橋の向こうから、一人の男性が歩いてきた。
長身を包む、濡れて色を変えた淡い色のシャツ。
濡れた髪を軽くかき上げる仕草。
大智だった。
「奈々」
彼の低い声が雨音を溶かして届く。
奈々は胸の奥がキュッと縮むのを感じながら、小さく頷いた。
大智の着ている淡いシャツの向こう側——彼の日常、彼が背負っている過去、奈々には決して見せない彼の「大人としての顔」。
奈々の知らない世界が、そこには確実に存在している。
彼の家庭、仕事、そして奈々という存在の位置づけ。
彼が時折見せる遠い目を見るたび、奈々は自分が彼の人生のほんのわずかな隙間に滑り込んでいるだけに過ぎないのではないかという恐怖に襲われた。
(どういうつもりで、このまま2人、逢い続けるの……?)
喉まで出かかった問いかけを、奈々は呑み込んだ。
それを言葉にしてしまえば、今にも崩れそうなこの細い糸が、ぷつりと切れてしまう気がしたからだ。
「寒かったろ。入って」
大智は自分の大きな傘を差しだし、奈々の肩を抱き寄せた。
彼の体温と、かすかな煙草と金木犀の混ざった匂いに包まれる。
でも、好きになればなるほど、奈々の心は苦しくなるばかりだった。
大智のマンションの部屋は、いつも静まり返っていた。
生活感の薄い、無機質なリビング。
そこは奈々にとって、世界で一番愛おしく、そして一番孤独を感じる場所だった。
「はい、温かい紅茶」
マグカップを渡してくれる大智の瞳は、どこまでも優しい。
道端で捨てられた子猫をそっと抱き上げるような、慈愛に満ちた、でもどこか距離のある瞳。
「ありがと……」
「奈々、またそんな顔して。大丈夫か?」
大智は奈々の頭をぽんぽんと撫でた。
その手つきは優しくて、温かくて——そして、まるで子供をあやしているかのようだった。
「……子供扱いしないで」
奈々は小さく呟き、マグカップをテーブルに置いた。
「子供扱いなんてしてないよ」
「してるよ。大智はいつもそう。私に何も教えてくれない。私の前ではずっと『優しい大人』のままで……本当の気持ちなんて、ひとつも言ってくれないじゃない」
奈々の声が震えた。
大智の優しさは、時に残酷な壁になる。
彼が踏み込ませてくれない境界線の外側で、奈々はいつも一人取り残されている気がしていた。
私独りだけが淋しがりで。
私独りだけが、この恋に必死になっているみたいで。
「奈々……」
「隠さないでよ! 感情的に熱く、痛く焦げたような……大智の本当の内側の声を聞かせてよ! 私たちのこの関係が、ただの気まぐれや嘘じゃないって……ちゃんと私に刻み込んでよ!」
叫ぶように吐き出した言葉は、静かな部屋に空しく響いた。
奈々の目から涙が溢れ落ちる。
大智は驚いたように目を見開いたが、やがて痛みに耐えるような表情を浮かべた。
彼はゆっくりと手を伸ばし、奈々を強く抱きしめた。
その腕の力強さは、苦しいほどだった。
彼の息遣いが荒くなり、奈々の肩に回された手がかすかに震えているのが分かった。
(あぁ……そうなんだ)
奈々は胸の奥で悟った。
苦しんでいるのは、私だけじゃない。
大智のこの強すぎる抱擁は、彼自身がどうしようもない現実と戦い、何もできない自分自身に悲鳴を上げている証拠なのだ。
「すまない……奈々、すまない……」
大智の低い声が、奈々の耳元で濡れていた。
すべてを捨てて、君を愛したい。
過去に彼がそう囁いた夜があった。
けれど、その約束はいつだって冷たい雨に消され、現実に打たれて流されていく。
彼には守るべきものがあり、背負うべき責任があった。
奈々のためにすべてを投げ出すことなど、できるはずがなかった。
「……大智」
「俺は、君を苦しませてばかりだ」
不安という底なしの海に、二人で飛び込んでしまったのだと奈々は思った。
どこに行き着くかも分からない、祝福されることもない恋。
凍えるような心で抱き合いながら、お互いの体温だけを唯一の光として灯している。
愚かだと笑われても、このぬくもりだけは本物だと、そう信じるしかなかった。
部屋を出る時間は、いつも唐突にやってくる。
「送っていくよ」という大智の言葉を断り、奈々は一人で玄関に向かった。
これ以上一緒にいたら、本当に帰れなくなってしまうから。
「じゃあね、大智」
「気をつけてな。傘、忘れるなよ」
バタン、とドアが閉まる。
金属音とともに途切れた二人の世界。
左手でドアノブを放した瞬間、胸を突くような鋭い痛みが奈々を襲った。
(痛い……息ができない)
ドアに背中を預け、胸をぎゅっと押し祀る。
別れてから、まだ5分も経っていない。
彼の部屋の前の廊下、冷たい風が吹き抜ける空間で、奈々は崩れ落ちそうになる膝を必死で耐えていた。
もう、逢いたい。
今すぐにあのドアを開けて、彼の胸に飛び込みたい。
「好き」と言ってほしい。
「行くな」と言ってほしい。
でも、奈々は歩き出した。
マンションを出ると、相変わらず冷たい雨が降り続いていた。
濡れたアスファルトに反射する街灯の光が、滲んで揺れる。
すれ違う人々はみな足早に家路につき、金木犀の香りは雨の冷たさに洗われて薄れかけていた。
奈々は傘を強く握りしめ、濡れた街を歩く。
好きになるほど、苦しくなっていく。
この恋に未来がないことなんて、本当は最初から分かっていた。
どういうつもりで、このまま二人で逢い続けるのだろう。
この問いに、誰も正しい答えなんて与えてはくれない。
だけど——。
雨の音に混ざって、さっきまでの大智の抱擁の温もりと、彼の切ない吐息が鮮やかに蘇る。
子猫を抱くような瞳の奥にあった、一瞬の激しい情熱と痛み。
あれは嘘じゃない。
私たちが不安の海で抱き合ったあの時間は、間違いなく本物だった。
「嘘じゃないって……教えてよ」
奈々は濡れた頬を拭うことなく、雨空を見上げた。
降り止まない雨の中、奈々は今日も彼を想う。
どれだけ傷ついても、どれだけ痛く焦げ付くような夜を重ねても、このぬくもりという名の光を信じて、奈々は明日も大智に逢いに行くのだ。
冷たい雨は、二人の切ない秘密を隠すように、静かに、どこまでも降り続いていた。